つれづれなる技術屋日記

しがない技術屋。専門は情報工学で、「つれづれ技術屋」って呼んで。

秋山参謀はPMOメンバー?

暮れに、NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」(正確には第3部)が放送された。その際に、Facebookで知り合い(PMP資格保有)とやり取り。日本海海戦などをプロジェクトと考えれば、海軍の秋山参謀はメンバーとしてどんな役割だろうか?というもの。PMO(Project Management Office)のメンバーと考えるのが良さそうだけど、若干別の意見や考えもあった/浮かんだ。

 

そのきっかけもあり、ぽつりぽつりと追加的に調べたことなどを含めて、今回まとめてみた。ただし、ドラマ「坂の上の雲」の細部を注意して見ていた訳じゃないし原作を読んでる訳じゃないので、勘違いなどがあっても悪しからず。

 

また、ウィキペディアでの「日本海海戦」や「日露戦争」など、以下の「NHKスペシャルドラマ・ガイド 坂の上の雲 第3部」「NHKスペシャルドラマ・ガイド 坂の上の雲 第2部」「人間東郷平八郎乃木希典」「統帥権と帝国陸海軍の時代 」を参考にした。当然、PMIによるPMBOKやプログラムマネジメント標準なども参考にしている。

 

 

今のうちにイメージしやすいように、スペシャルドラマ「坂の上の雲」での登場人物と俳優さんを記載しておく。敬称略、順不同。役職はドラマ3部ガイドでのそれとした。(複数ある場合はガイドでの最後のもの。ただし加藤友三郎は、ガイドとは異なり連合艦隊参謀長とした。)

 

 秋山真之本木雅弘) 連合艦隊参謀

 東郷平八郎(渡哲也) 連合艦隊司令長官

 島村速雄(舘ひろし) 第2艦隊司令

 加藤友三郎草刈正雄) 連合艦隊参謀長 

 山本権兵衛石坂浩二) 海軍大臣

 山県有朋江守徹) 参謀総長

 児玉源太郎高橋英樹) 総参謀長

 大山巌米倉斉加年) 満州軍総司令官

 乃木希典柄本明) 第3軍司令官

 明治天皇尾上菊之助

 小村寿太郎竹中直人) 外務大臣

 

 

まず、明治元年が1968年で、日本海海戦明治38年(1905年)5月27日・28日。40年近く前はちょんまげのサムライの時代だった国が変貌。倒幕や西南戦争などの士族反乱といった内乱を経ながら、”軍”の近代化が進められていった。1889年には大日本帝国憲法が発布されると共に、同じ年に徴兵令が大幅に改訂され国民皆兵となった。また、1894年に日清戦争が勃発する。その関係で、広島に天皇が移ったり、国会を広島で開催したりしている。

 

なお、帝国陸軍と帝国海軍は1872年に設立されるが、西南戦争が薩摩・西郷隆盛の蜂起だったことから長州メンバーが主の陸軍に重きを置かれた。しかしその後は、次第に海軍も組織的に陸軍並みに整っていく。(日本海海戦での主な戦艦の竣工は、1987年~1902年。いずれもイギリスでの建造。)

 

台湾や朝鮮半島への派兵も行われ、1894年~95年の日清戦争勝利で清から領土(特に遼東半島)と多額の賠償金などを得た。しかしその後の、ロシア、フランス、ドイツの三国干渉により、遼東半島を清に返還する。清は日本に返還のための賠償金を支払ったが、その穴埋めに遼東半島を各国に租借した。ロシアは遼東半島の先端の旅順に軍事基地を作ったり、義和団の乱での派兵などを通じて、日露の対立が深まる。租借に際しては金銭の授受も行ったが、せっかく手に入れた油揚げを鳶(トンビ:ロシア)にさらわれ、糞か何かを掛けられたような気持ちだったろう。

 

 

日本海海戦当時の組織図を書いてみた。連合艦隊日本海軍が二個以上の常設艦隊の非常設の艦隊であるし、”軍”(特にここでは第3軍)は日本陸軍の戦争時に編成されるものである。また軍政(陸軍省海軍省)と軍令(陸軍参謀と海軍軍令部)は、分かれていた。 ※図などで間違いがあれば、コメントなどでお願いします。

 

f:id:honda-jimusyo:20200916115629p:plain上の図は、ダブルクリック等... <<移行に伴いダブルクリックでも拡大せず。>>

 

なお、組織図は任命権の関係で、明治天皇をトップとしている。連合艦隊司令長官の任命に関しては、大日本帝国憲法そのものに明記されているわけではない。大日本帝国憲法第10条での文武官を任免による。本来、陸海軍では陸海軍大将のみで軍内の組織は含まないが、大将に次ぐランクとして「親補職」が設けられ、親補職の1つが連合艦隊司令長官である。ウィキペディア親任官」などを参照のこと。なお、大日本帝国憲法第10条での文武官には官吏が含まれ、今で言う上級の国家公務員が該当したと考えて良く、天皇の任命権は結構幅広かったと解釈すべきだろう。(“上級国家公務員”という言葉は使わなくなったようだが、イメージ的にはそれに近いと言うことで。)

 

 

日本海海戦に関する時系列的な事を示す。ロシア帝国海軍第2太平洋艦隊のみをバルチック艦隊と呼称しているページなどもあるが、ここではウィキペディアなどと同様に第2太平洋艦隊と第3太平洋艦隊を合わせてバルチック艦隊と呼ぶ。

 

1902/03/01 戦艦三笠竣工 (同年5/18横須賀到着、7/17舞鶴到着)

1903/12/28 連合艦隊編成 司令長官に東郷平八郎 (満55歳 ちなみに当時秋山参謀は満35歳)

1904/02/08・09 仁川沖海戦

1904/02/10 ロシアに宣戦布告

1904/02/23 日韓議定書締結

1904/02/24~、03/27~、05/02~ 旅順口閉塞作戦

1904/08/10 黄海海戦 ロシア第1太平洋艦隊(旅順艦隊)との戦い

1904/10/15 ロシア第2太平洋艦隊がリバウ軍港を出港

2004/12/04 日本軍が203高地を占領し、その後支配

1904/12/16~1905/02/21 一旦日本に帰還

2005/05/09 ロシア第3太平洋艦隊がインドシナで第2艦隊と合流 (バルチック艦隊形成)

1905/05/27・28 日本海海戦

1905/08/09~09/05 ポーツマス講和(会議開催~条約締結)

1905/12/20 連合艦隊解散(翌21日に解散式)

 

1903年の暮れにチーム編成が発表され、一・二ヶ月ほどして宣戦布告や実戦を行っている。東郷平八郎自身常設の司令長官だったが、3つの艦隊(数え方によっては5グループ)を早急に連合艦隊としてまとめ上げる必要があった。つい考えてみれば、洋上で搭乗員全てを1つの艦に集めるわけにも行かないし、テレビ会議などライブ映像配信のある時代でもない、、、、。

 

ちなみに、ロシアへの宣戦布告前に仁川沖でロシアとの海戦を交えている。また日韓議定書やその後の日韓協約により、朝鮮半島での日本軍事施設が建設される。特に鎮海湾(釜山要塞)の施設は、その後の日本海海戦などで日本軍にとって有利に働く。鎮海湾(釜山要塞)については、以下など。(仁川沖海戦や日韓議定書・日韓協約に関してその後も含めていろんな解釈があり、ここでは言及しない。)

 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%9C%E5%B1%B1%E8%A6%81%E5%A1%9E

 

 

日本海海戦での兵力の比較は、以下などが参考になる。

 

http://www.page.sannet.ne.jp/tsekine/nihonkai.htm

 

戦艦以外の船舶数や総トン数は、日本の方が上回っている。(ただし、細部を後述。)

 

 

  日本 ロシア
戦艦 4 8
装甲巡洋艦 8 3
巡洋艦 16 6
装甲海防艦 2 3
駆逐艦 21 9
水雷艇 41 0
総トン数 25万t 16万t

 

 

プロジェクト目線で日露戦争連合艦隊(ここではチーム東郷と呼ぶことにする)を考えてみようとしているが、そもそも連合艦隊をプロジェクト的と考えるのが妥当か? プロジェクトマネジメントを多少学ぶ/学んでないでプロジェクトとして意識するかが大きく異なると言えるが、ここではプロジェクト的と考えた方がすっきりするとの立場を採りたい。

 

連合艦隊は、編成開始と解散などがあることで、定常業務とは異なる。プロジェクトにはPMBOKなどでの定義のように「独自性」と「有期性」が必要である。連合艦隊の場合、前者はよいとして、後者の有期性に合致するかの疑問があるかもしれない。プロジェクトマネジメントでの有期性は、”明確な始まりと終わり”であり、明確な開始日と終了日ではない。明確な終了としては、戦争に勝利しての解散、戦争での全滅、政治力などによる戦争終結など、複数のケースが上げられる。

 

次に、チーム東郷はプロジェクトとプログラムのどちらだろうかとの疑問が涌く。ちなみにPMBOKでのプログラムの定義は「調和の取れた方法でマネジメントする、関連したプロジェクトのグループ。個別のプロジェクトのマネジメントで得ることのできない利益が得られ、コントロールが可能となる。プログラムは、プロジェクトに含まれる個別プロジェクトのスコープに入らない関連作業の要素を含む場合もある。」としている。またPMIのプログラムマネジメント標準では、複数のプロジェクトのベネフィットをまとめられる場合や、個々のプロジェクトマネジメントではコントロールできない場合の活動をプログラムとしている。

 

一般的にも”サブプロジェクト”という言葉も使われており、対象とするグループをプログラム、プロジェクト、サブプロジェクトのどれと考えたら良いかは悩ましい事が多い。今回だと、国全体の日露戦争への取り組み、海軍の連合艦隊、各戦隊、各戦艦といった階層が考えられる。それらの各層や、その中のグループをどれに相当すると考えるか、、、。日露戦争での連合艦隊をプログラムと考えた方が良いとの意見もあるかもしれないが、ここでは連合艦隊自体をプロジェクトと考えることにする。艦隊がグループとしてまとまっていることや行動も一致していること、そしてそもそも開始と終了が一致しているためである。

 

次に、秋山参謀のプロジェクトでの立ち位置について考えてみる。プロジェクトマネージャーだろうか? あるいは、プロジェクトメンバー? 実際に操舵したり、射撃しているわけでもない。かといって、プロジェクトマネージャー(あるいは、プロジェクトの管理者層)とは一味異なる。連合艦隊参謀がプロジェクトマネジメントオフィスであり、秋山参謀はそのメンバーと考えた方がすっきりすると考えた。

 

ちなみにPMBOKでのプロジェクトマネジメントオフィスの定義で”所轄する複数のプロジェクトを一元的にマネジメントする”と述べているが、プログラムマネジメント標準でのプログラムマネジメントオフィスの説明はプログラムそのもの/プログラムマネージャへの働きかけとしている。つまり、PMIでの定義では、プロジェクトマネジメントオフィスは複数のプロジェクトの面倒を見るイメージであるが、プログラムマネジメントオフィスは該当プログラムの面倒を見るイメージだ。ちなみに、プロジェクトマネジメントオフィスをPjMOと、プログラムマネジメントオフィスをPgMOと表記する人やグループもある。

 

ただし、プロジェクトマネジメントオフィスを該当プロジェクトの面倒を見ることを指す人やグループもあり、プロジェクト内PMOと呼んだりする。したがって、プロジェクトに紐付くPMOもおかしくはないと言える。ここでは、それに近いPMOと考え、以下ここでのPMOは、プロジェクトマネジメントオフィスのことを示すものとする。

 

 

チーム東郷をプロジェクトチーム、秋山参謀をPMOメンバーと捉えると、我々の身近なプロジェクトにも参考になりそうな点がいくつか見えてくる。軍隊という特殊性や時代的なことなどで現代の組織体には取り入れない方が良いものもあるかもしれないが、対比的な検討は悪くないと思うので列挙してみる。

 

 

・プロジェクト化

 

チーム東郷の発足や解散は明確である。発足は司令長官の任命だし、解散式も行っている。身近なプロジェクトの発足/解散と近いのではないだろうか。ただし発足時は、常設の艦隊を言わば寄せ集めてのチーム編成となっている。また解散は、海戦直後ではなく条約締結後である。大きなブロック単位でプロジェクトチームに組み入れるケースは昨今のプロジェクトでは少ないかもしれない。また解散までの終結プロセスに時間をかけた点は、参考にしても良いと考える。(例えば、保守メンバーへの引き継ぎや保守メンバーでの保守作業確認まで行って解散するようなパターンに近い。)

 

ちなみに、初代三笠艦長早崎源吾の任命は1901/05/01(~1903/01/12) であり、二代目艦長が日本海海戦時の艦長でもある伊地知彦次郎で任命は1903/09/26(~ 1905/09/29)である。三笠の初代艦長早崎は製造のイギリスで引き渡しを受け、日本横須賀に1902/05/18到着した。恐らく乗員の多くは日本人で、イギリス→日本の航海をこなしたと思われる。

 

http://www.jacar.go.jp/nichiro2/topic/topic01_01.html

 

寄せ集めとは言え、各艦隊・各艦の能力や搭乗員のスキルもばらつきがあった。常設の艦隊メンバー以外の、連合艦隊直下のメンバーは限られている。

 

http://www.z-flag.jp/suigun/tsushima_war/forces.html

 

上記によると、司令長官以外は、参謀、副官、機関長、軍医、主理程度である。プロジェクトマネージャーのスタッフやPMOのメンバーと言える。これらのメンバーが主となりチームとしての形成やプロジェクトとしての問題対策も行っていったと考えるべきであろう。(ちなみに主理は法律の専門家で、ネットでは現在の司法修習生レベルと記載してあるが、修習生レベル以上と解すべきかもしれない。)

 

東郷司令長官、島村・加藤の両参謀長、秋山参謀の就任を主とした時系列は以下。

 

1903/10/27 島村:常備艦隊参謀長

1903/10/27 秋山:常備艦隊参謀に異動し、第1艦隊参謀を併任

1903/11/10 加藤:軍務局先任局員

1903/12/28 東郷:連合艦隊司令長官

1903/12/28 島村:第1艦隊参謀長、連合艦隊参謀長(兼任)

1903/12/28 加藤:第2艦隊参謀長

1905/01/12 島村:第2艦隊第2戦隊司令官

1905/01/12 加藤:第1艦隊参謀長、連合艦隊参謀長(兼任)

1905/05/27・05/28 日本海海戦

  :

1905/12/20 連合艦隊解散

 

加藤友三郎の経歴は http://www007.upp.so-net.ne.jp/togo/human/ka/tomosabu.html より。他はウィキペディアより。)

 

結果的には、東郷が司令長官に任命される前に島村・秋山を近くに配属したことになる。1905/01/12の島村から加藤への参謀長交代は、旅順口閉塞作戦や黄海海戦の失敗も原因と言われている。ただし個人的には、多少期間が過ぎており、作戦や体制の見直しを行った後の交代としたようにも思える。

 

次に兵員の確保であるが、どうやら(陸軍と異なり)海軍は基本的に志願兵を主としてきたようである。つまり、開戦により兵を招集して大幅に増やした訳では無さそうである。詳しい文献に当たれば日本海海戦時の連合艦隊の兵員(乗員数)が判明するかもしれないが、以下のように概算してみた。

 

まず、日露戦争連合艦隊の戦艦は、日本海海戦時は三笠、朝日、敷島、富士である。これらは、常備排水量が1.2万~1.5万t。乗員数が726~859名。

 

他に戦艦は、初瀬、八島があったが、この2隻は旅順口閉塞作戦で沈没してしまう。常備排水量や乗員数は上記4隻とほぼ同等。さらに2等戦艦と呼ばれる戦艦があるが上記戦艦の半分程度の規模だったり、巡洋艦は2等戦艦よりは少し大きめ。

 

水雷艇は、以下の場合、152tで乗員30人となっている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%BC%E5%9E%8B%E6%B0%B4%E9%9B%B7%E8%89%87

 

概算のために、4隻の戦艦で総トン数1.5万t*4、3000人とする。残り25-6=19万tに対して、1tあたり0.1人とすると1.9万人。0.3万+1.9万=2.2万で、トータル2~3万人規模だったと考えていいのではないだろうか。

 

ちなみに、以下のページでは4万人としている。また2011年3月末の海上自衛隊の定員は4.5万人であり、チーム東郷は現在の海上自衛隊の半分から同数に近い規模だったことになる。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1440085914

 

近代でも同様だろうが、日露戦争時の海軍戦力は戦艦等の装備や事前の訓練に大きく依存し、開戦直前や戦時中の徴兵などでの増員は大きな意味を持たなかったと言える。これは現代でも似ていて、海軍の戦争/戦闘の長期化による大規模な乗員補充は、非現実的と考えて良いのだろう。

 

チーム東郷は、2ヶ月で実戦を行っている。バルチック艦隊は合流という事情はあるが、半月で実戦。ドラマでは海外からの特派員がちらっと登場するが、相手のあることなので準備等に余りに時間を掛けるのは良くない。かといって、時間が短すぎるとチーム形成や訓練が不十分となる。日本海海戦の実戦までの、2ヶ月 Vs. 半月は大きく影響したと考えられる。(ちなみに太平洋戦争時、山本五十六長官就任~真珠湾攻撃と考えると実戦まで4ヶ月である。ここでの長官就任は、2度目の1941/08/11。)

 

チームの規模などで汎用的には言えないにしても、大規模チームの実行/実施までには月単位を意識しておくべきということなのかもしれない。それ以前には、作戦検討や訓練(ITやソフトウェア開発なら仕様検討などに相当やプログラミング等の教育)の期間を必要であるが。

 

 

・マトリクス組織との関係

 

常設艦隊の寄せ集めてチーム編成でありながら司令長官の権限を考えると、一般的に言われる「強いマトリクス組織」と言える。ここでの”強い”は、プロジェクト型組織に近いといった意味。

 

しかし、作戦(特に日本海海戦)での統一的な行動実践のためには、砲術、航海術、水雷術などのレベル合わせや統一行動のための戦術確立が必要だったと思われる。

 

現代の(ITなどの)プロジェクトで、ややもすると統一感に欠けてしまう問題も少なくない。その際のルールの形成や適用とか、そのための工夫などでチーム東郷の組織形成は参考になる。

 

 

海軍省などとの関係

 

連合艦隊の艦船やその装備を考えると、海軍省による軍備拡張や技術開発などが勝因の背景になっていることは明らかである。連合艦隊と海軍、軍令部、大本営の対立はあっただろうが、協力しあったと考えるべきだ。(少なくとも、第二次世界大戦での陸軍と海軍や軍内部等での対立よりはましだったのではないだろうか。)

 

参謀らの海外留学の実施したのも海軍省である。参謀らの海外からのレポートや学校での作戦案などの記述も少なくなく、これらは海軍省が保管や必要に応じた配布を行っていたと思われる。

 

加藤参謀長が海軍省軍務局の局員だったことでスムーズに進んだこともあったのではないだろうか。ちなみに、加藤参謀長は、連合艦隊参謀長の後に海軍省軍務局局長になっている。(蛇足だが、日本海海戦当時の軍令部長は伊東祐亨で、(日清戦争の頃の)初代連合艦隊司令長官。東郷と同じ薩摩出身。東郷平八郎連合艦隊司令長官の後は軍令部長になっている。)

 

大本営連合艦隊と同様に戦争を意識した臨時的な組織であり、戦時での最高統帥機関である。日露戦争では、1904/02/11に設置され1905/12/20に解散した。チーム東郷の設置に対して2週間ほど遅れ、解散は同時である。大本営はとかく大東亜戦争でのイメージが悪いが、戦争の継続や中止を指示できる組織体としては必要だったと考えてもよい。(だだし陸軍大臣海軍大臣発言権や文官参加の扱いなどが、その後、歴史的には問題となったと言える。) また現代プロジェクトにおいて、継続や中止といったポートフォリオ的な判断を行う組織体をどうするかは課題だが、個人的には(PgMOや)恒常的な組織体で行う方が良さそうに考える。

 

ドラマでは、海軍大臣山本権兵衛と常備艦隊司令長官日高壮之丞(中尾彬)との”取っ組み合い”や大本営の口出しを諫めるのシーンが印象的だった。前者は我の強い日高を嫌ったとされる。後者は東郷らが津軽海峡に移動しようとしたのに対して、大本営側は対馬に留まるべきと命令しようとした。結果的には大本営側の予想が正しかったことになるが、もし大本営が口出していたらより大きな混乱が発生したと思われる。(津軽海峡への移動の件は後でも述べる。)

 

 

・微妙な人的バランス

 

山本と日高との関係や島村と加藤など、ライバルだったり、同期や親友だったと人間関係が微妙なバランスの上に成り立ってる。作戦や軍拡などについても考えの相違があるし、性格の違いも大きい。同じ薩摩閥/長州閥でありながらもエピソードなどでは、子供の頃も含めた喧嘩が書かれているし、相手を気に入らなかったとの懐述などもある。逆にお互いに仲が悪そうながらも、状況では共同したり信頼しあっているケースもある。島村と加藤の関係はドラマでは余り触れていなかったように思うが、同期で主席と次席。参謀長の交代がありながらもチームメンバーとして共存していった。

 

日露戦争関係でより端的なのは、陸軍の児玉源太郎大山巌の関係だろう。児玉は、内務大臣から参謀次長や満州軍総参謀長へという降格人事を受け入れている、あるいは自ら願い出ている。

 

さらには長官や参謀には、秋山の奇行を含め一癖も二癖もある人が少なくない。秋山の奇行はドラマでもいくつか登場したが、本やネットでの記載は非常に多い。秋山好古の風呂嫌いなども含め、現代で実際に席が近くだったら総スカンだろう。当時は基本的に意見の衝突はありながらも、プロジェクト遂行時には奇行や性格などの点は気にしなかった/気にしないようにしていたのかもしれない。

 

ただし、ある程度のガイドラインを持って望んだと考えられる。ドラマでの端的な例は、島村の秋山に対する行動だろう。秋山の就寝に無頓着な事は大目に見たが、陸軍に掛け合うと小舟を出そうとした際には相手を間違っていると投げ飛ばした。

 

また、日本海海戦での東郷の判断ミスを第2艦隊が救った逸話も面白い。第2艦隊の司令長官上村と参謀佐藤。しかも、それを死ぬまで二人とも口外しなかったらしい。明治人の気質でもあったのだろう。

 

http://ww1.m78.com/russojapanese%20war/8%20point.html

http://www.nichiro-sensou.com/person/satou_tetsutarou.html

 

これらが、ダイナミックかつ俊敏なプロジェクト遂行の一因とも言える。近代的/欧米的なプロジェクトマネジメントでは余り検討されない事項ではあるし現代では難しい面もあろうが、参考になる部分も少なくないと考える。

 

 

・権限委譲

 

ドラマでは山本権兵衛大本営の口出しを諫めるシーンなど、権限委譲では参考になる部分が少なくない。ドラマの第10回「旅順総攻撃」の回での大山巌児玉源太郎の会話も印象深かった。乃木希典の基地を訪問する直前、近くに部下もいる馬上での会話である。「満州の作戦は~、全部児玉さーに任せちょいもす」。(鹿児島出身の自分には放送用薩摩弁に思えるが、まっそこは気にしないことにしたい。) 

 

蛇足:ドラマで山本権兵衛に口出しをした大本営の人物は、財部彪(たからべ たけし)。秋山とはライバルで、秋山が議論で深く遣り込めてしまったこともあった。ただし、財部は山本権兵衛の娘婿。むしろ秋山が組織的には不遇だったとも言えるし、もし口出しを諫めるとしてもドラマとはちょっと違ったやり取りだったと思われる。

 

加藤参謀長と秋山参謀の進言による、津軽海峡への北進への進言のシーンも同様だ。日本海海戦の直前、不安になり秋山参謀は加藤参謀長と共に、東郷の元を訪れ北進の封密命令を発行して欲しい旨を進言する。東郷は加藤の意見も確認して、二人がそう言うならと同意する。なお、その後島村と秋山からのどちらかと思うかの問いには、「敵がここを通るっちゅうて通る」 。

 

ドラマ上は、東郷は対馬を通ると思っていながらも、参謀グループの進言を聞き入れて封密命令を発行したことになる。ふと北進への封密命令進言を却下しても良さそうに思うが、ドラマの見せ場だし、史実で封密命令が発行されているのであのような設定になったと考えられる。ちなみに個人的には、もしチーム東郷は北進を実行しても、哨戒船や海軍からの情報の入手、そしてチームの対応力でリカバーできたのではないかと思える。(封密命令に関しては、エピソードのコーナーで再度述べる。)

 

現代のプロジェクトでも、マネージャーとメンバーの意見相違が発生することは少なくない。意見を引き出したり、合理的な議論を行う必要がある。その上でなら、マネージャー自身の意見や考えを引っ込める覚悟も必要である。

 

相手に依存したり、技術的にも未知なケースもあり得る。その場合は、運を天に任すしかないのだろうが、リスク想定とかリカバリープランを検討した上でだろう。

 

 

・教育

 

島村は海軍兵学校での教鞭を、秋山真之海軍大学校教官を経験している。既述の訓練や戦術確立に、これらが役立っていると考えられる。ちなみに島村は、日露戦争後に海軍兵学校の校長を務めた。

 

海軍大学校、将校などの教育のための海軍兵学校/海軍機関学校/海軍経理学校、術科のための海軍航海学校/海軍工機学校/海軍工作学校/海軍水雷学校/海軍通信学校海軍潜水学校/海軍砲術学校などが用意されていた。後者には、軍医や衛生の学校も含まれる。

 

ドラマでも兵棋演習の様子が出たが、実践的で勝敗が明確に判明する教育は効果的だったのだろう。またドラマにも登場する内筒砲射撃やロシア船種の暗記などは、連合艦隊になって(さらに)行ったと思われる。それらの訓練企画も参謀グループが行ったのではないだろうか。ちなみに内筒砲射撃は、実弾の代わりにライフルを使用して方位などが正しく設定できたかが判明する。対比的に考えれば、ソフトウェア開発で新入社員教育などを通じて一定レベルにする会社もあるが、そうでもない会社や委託先の技術レベルに無頓着なケースも少なくない。

 

ただ、ドラマの日本海海戦の東郷長官の右手振り下ろしのシーンが示すように、行動では俊敏さが要求される。学校での演習や議論は重要だが、実践では大なり小なり持論を引っ込めることも必要だ。具体的にドラマで出てきた記憶がないが、現地での訓練等を通じて作戦実施のための戦術議論の収斂などを行ったのだろう。つまり、教育から実践への収束。昨今はプロジェクト中の議論や検討が長すぎたり、それによる長期化を含めた弊害が少なくないと考える。

 

 

・失敗への対応

 

チーム東郷は、失敗への対応が有効だったものがある。代表的なものは、黄海海戦での丁字戦法の失敗とバルチック艦隊誤報である。

 

前者は、黄海海戦で丁字戦法を実施したがタイミングが良くなかったというもの。そのため日本海海戦では、ぎりぎりまでターンを行わなかった。後者は、5/23に仮装巡洋艦佐渡丸」 からバルチック艦隊発見の報(ただし誤報)への対応がまずかったというもの。誤報に関しては以下など。

 

http://www.sakanouenokumo.com/setteki.htm

http://navgunschl.sblo.jp/article/48178038.html

 

上での下の方では、それ以外でも誤報による小さな出撃はあったようだ。また信濃丸による発見時も、情報の錯綜が発生しているように思える。

 

上の2つのような大きな問題では、作戦や通信設備や方式の見直しを行っている。これらはドラマ等では表現されにくいが、念頭に置くことでプロジェクト的に身近に感じることができるし、その対応の重要性を認識できると言える

 

 

・骨休み

 

連合艦隊自体は、発足から解散まで2年間ほど。旅順口閉塞作戦から日本海海戦まででも1年3ヶ月ほどかかっている。ただし、三笠をはじめとする第1,第2艦隊は1904/12/16、旅順から一旦日本に帰還する。修理やフジツボの除去など行うため。翌年の1905/02/21に、また朝鮮半島の鎮海湾に戻る。ウィキペディアや以下などに記載されている。

 

http://www.ne.jp/asahi/chronicles/map/nichiro_keii.htm

 

ちなみにドラマでは、一時帰還した秋山参謀が、東京で久々に家族と対面するシーンがあった。

 

つまり旅順口閉塞作戦から10ヶ月ほどして、2ヶ月間の一休み。その一休みの後に、3ヶ月の現地待機や日本海海戦が敢行される。

 

戦艦三笠の速力は18ノットであり、装甲巡洋艦の八雲や浅間のそれは20.5ノット/21.5ノットである。対するロシアの戦艦スワロフの速力は17.8ノットであり、長い航海でのフジツボ付着のことを考えると、この連合艦隊の一時帰還は有効だったと言える。(ロシアの巡洋艦ナヒモフは16.3ノットと日本の巡洋艦よりは遅い。ただし他の艦とかまで調べきってはいない。)

 

本来は黄海海戦後にでも帰還したかったが、旅順艦隊への備えや陸軍による203高地攻略の援護の意味もあって、203高地攻略を見極めてからの帰還になったのだと思われる。黄海海戦などでの破損部分の修復や、戦艦初瀬と八島の沈没に伴うチーム現地で行える再編成の検討なども併せて行ったからかもしれない。

 

実は一旦日本に帰還した際に、運動会を催している(ようだ)。以下の2つのうちで、下の方が現代訳で、第2艦隊司令長官上村彦之丞の指揮とある。

 

http://navgunschl.sblo.jp/article/47337730.html

http://navgunschl.sblo.jp/article/45396572.html

 

上記の気分転換などを含めて、これら気分転換は現代でも参考になると考える。半年とかテンション張りっぱなしでは、メンバーが持たない。

 

 

・用意周到さ

 

既に述べたように、連合艦隊バルチック艦隊の戦力比較では、総トン数などで日本の方が上回っていた。バルチック艦隊が日本に近づくのを早期に発見するために、哨戒艦船73隻を対馬近海に格子状に配している。また、丁字戦法(のみ)がクローズアップされるが、作戦計画は”七段構え”としており、丁字戦法は2段目の作戦であった。

 

東郷は、「連合艦隊戦策」なるものを1904/01/19に、改訂を1905/04/12発行している。これには丁字戦法なども書かれていた。1904年1月はチーム東郷が形成されて間もなくである。なお、”連合艦隊戦策”で検索するといくつかヒットするが、他の改訂の発行などを記載してあるものもある。細部までは確認していないが、いずれにしろこれらのドキュメント(小冊子)を早期に配布し、メンテナンスして周知徹底して行ったことは確実だろう。

 

また直接連合艦隊が実施したわけではないが、バルチック艦隊に対して外交力で寄港を限定的になるようにしている。イギリス漁船を日本の待ち伏せと誤認してバルチック艦隊が攻撃したドッガーバンク事件によるロシア批判も追い風になった。(日露戦争全体では、明石によるロシア工作なども日本勝利に影響している。)

 

現代風に言えば、リスク管理なりコンティンジェンシープランの策定を十分に行っていたことになる。

 

 

 

さて、日本海海戦などを調べていくと、結構面白いネタにぶつかる。以下でいくつか紹介する。

 

エルトゥールル号遭難事件

 

エルトゥールル号遭難事件」は、1890年軍艦エルトゥールル号が、日本への訪問の帰路、現在の和歌山県沖で遭難したというもの。”エルトグルル号”とも。またここでは、当時はオスマン帝国だったが、現在との関係でトルコとして記載する。

 

587名が死亡または行方不明だったが、69名が救出され、日本海軍の「比叡」と「金剛」でトルコに送り届けた。トルコ国民はいたく感謝したとある。その関係か、日露戦争での日本の勝利を記念して、トルコのイスタンブールには”トーゴー通り”がある。また、1985年のイラン・イラク戦争の際に、在留邦人の避難がトルコ航空のお陰で行われた。

 

エルトゥールル号遭難事件で、トルコに送り届けた「比叡」に秋山参謀は乗船していた。当時海軍兵学校を卒業し海軍少尉候補生で、満22歳。

 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%AB%E5%8F%B7%E9%81%AD%E9%9B%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%B3%E8%88%AA%E7%A9%BA

 

信濃丸 地点203

 

ドラマでもバルチック艦隊の発見地点は”203”。203高地の203と偶然にも一緒となった。

 

この番号は、バルチック艦隊の哨戒のために緯度経度をそれぞれ10分ずつ格子状に区切り、それぞれに203、204などと振ったものである。(10分は、だいたい18.5Km。イメージ的には20キロ四方といったところか。)

 

で、ウィキペディア日本海海戦」などにも書かれているように、信濃丸からの発見電文を 『タタタタ(モ四五六)「YR」セ』としているものが多い。456は時刻ではなく地点、つまり203ではない。(タタタタは、モールス信号のトンツーの類のようだ。)

 

地点が203なのに電文が456である理由は、調べても余りよく分からなかった。以下での写真などが”456”と書かれている電文のようだ。(個人的には、部署ではなく本当に各人に回覧したのか、回覧印も気になった。) 他のサイトなどにもある。

 

http://yfm24651.iza.ne.jp/blog/entry/2360759/

 

そもそも地点456の電文は、日本海海戦の終盤での電報が残っており、それを発見時の電文として写真等が残っているとしているものがある(多い)。その意見では、そもそもの最初の電文には位置情報が無く、後の確認で203と判明したというもの。(ちなみに「坂の上の雲」では456を時刻としているとのネット記載もある。) 例えば以下のように、元々の電文は『KKKKKK…タタタタ…(モ203)〇四五〇。「YR」「AI」「AI」「AI」…』だったとする意見がある。

 

http://nemuihito.at.webry.info/201106/article_4.html

 

なんとなく個人的にも、上が妥当な気がする。つまり、日本海戦終盤での信濃丸からの456の電文が、発見時の電文として広まってしまったように思える。

 

なお本来このようなことが話題になれば、無線担当者やその部署からの意見があっても良さそうだが、そもそもそのような部署の人達は分かってても発言しないのだろう。また、省略などを多用して明示的に暗号に近くしたり結果的に暗号っぽくなった可能性もある。ただし個人的には、誤報や不要な出撃などの遠因にも思えるので、改めるべきだったのではないかと考える。

 

信濃

 

太平洋戦争時は輸送船となり、漫画家「水木しげる」が乗船した。(ウィキペディアの「信濃丸」の項に書かれている。)

 

山本五十六

 

日本海海戦では、太平洋戦争時の連合艦隊司令長官 山本五十六も参戦。そこで指欠損や大腿部重傷を負う。ちなみに搭乗していたのは、装甲巡洋艦「日進」。

 

「春日」と「日進」の2隻はイタリアの建造で、本来の納品先はアルゼンチンだった。それをイギリスの仲介で日本向けに変更してもらった。日本(横須賀)に着いたのは1904年2月26日で、日露戦争開戦後、旅順口閉塞作戦の第1回が失敗した後である。

 

山本五十六は2004年11月に海軍兵学校を卒業、満20歳。既に述べた連合艦隊の一時帰国での2005年1月に、日進に乗船している。そして日本海海戦を経験。言わば、ちょっとしたOJTの後に、とんでもないプロジェクトの配属になったのと似ている(かもしれない)。

 

・東郷と秋山の生年月日

 

東郷の生年月日は1848/01/27。秋山は1868/04/12。いずれも太陽暦。20歳の違いである。秋山は明治元年生まれなので、満年齢は明治の年代にするとイメージ涌きやすい。(明治5年12月に太陽歴に移行するので、あくまで概算しやすいという程度。)

 

・共立学校

 

秋山参謀は「共立学校」などで受験英語を学び、大学予備門(のちの一高、現在の東京大学教養学部)に入学した。共立学校の校長が高橋是清で、秋山や正岡子規に英語を教えた。共立学校は、現・開成高校正岡子規の死後に妹の律が通ったのが「共立女子職業学校」。共立学校と共立女子職業学校は、設立などでの関係はないようで、横浜共立学園とも無関係。

 

ところがドラマでは、秋山夫人の季子(すえこ)が律と一緒に共立女子職業学校の門を通るので関連がありそうに思ってしまう。季子との引き合わせのシーンで、高橋是清や秋山が同席したように思うのでなおさら。

 

・北進の封密命令

 

日本海海戦でちょっとミステリアスなのは、バルチック艦隊対馬に現れるかの議論やそのための封密命令発行だろう。

 

そもそも東郷や秋山は最初から最後まで対馬に来ると予想していたのかとか、封密命令は実際発行されたのに実行されなかったのはなぜかといった疑問である。

 

個人的には、以下での“秘められた密封命令”以降が説得力があると感じる。藤井較一参謀長の意見で議論が継続し、実行が遅くなったというものである。島村司令官(前参謀長)の影響も大きかったとしている。

 

http://plaza.rakuten.co.jp/jinburo/007003

 

他に以下のように、松井参謀も対馬沖との考えだったようだ。

 

http://www.z-flag.jp/suigun/tsushima_war/episode.html

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1273497767

 

バルチック艦隊発見

 

バルチック艦隊発見は、1905年5月27日午前2時45分、五島列島近くの仮装巡洋艦信濃丸」により行われた。それ以前にも上海でのバルチック艦隊の石炭輸送船入港の知らせもあった。上の“秘められた密封命令”以降での26日の記載がそれに当たるし、ネットでもいくつか記載されている。

 

しかし、それ以前に沖縄沖で発見した漁民がいた。いわゆる「久松五勇士」。

 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E6%9D%BE%E4%BA%94%E5%8B%87%E5%A3%AB

 

http://www.kinenkan-mikasa.or.jp/epi/hisamatsu.html

 

23日の午後10時頃に発見したとなっている。ただし、電報訳は「5月28日午前8時10分」である。100キロを5時間かけて漕いだとしているので少しつじつまが合わない。で、色々探したら、以下での「第五章 情報伝達」のPDFの一部に書いてあった。電報を出そうにも、お役人に信じてもらえず時間が経過したようだ。※ただし、2012/02/10現在リンク切れになっている。第5章以外の東日本震災関連のドキュメントもリンク切れになっている。両方とも力作だったし参考になったので、非常に残念だ。

 

http://tomiokatomonokai.web.fc2.com/tosho.html

 

以下では推測を加えてとはしてあるが、お役人などによる時間の経過という点は納得できるのではないだろうか。

 

http://yaeyamanow.nanpusya.com/history24.html

 

・技術革新

 

日露戦争では、科学技術での日本の優位性もあった。ウィキペディアでは、36式無線電信機、下瀬火薬、伊集院信管などを挙げている。

 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%B5%B7%E6%B5%B7%E6%88%A6#.E6.96.B0.E6.8A.80.E8.A1.93

 

36式無線電信機は、現在の島津製作所によるバッテリーが搭載されており、その関係で東郷による感謝状が創業記念資料館に展示されている。

 

http://www.kinenkan-mikasa.or.jp/epi/sinano-izumi.html

 

感謝状(感状)の文面では軍艦「和泉」宛のようだし、上でも”寫(うつし)”とある。東郷から受け取って、軍艦「和泉」のメンバーが寄せ書きし、さらにそれのいくつかの写しを作成したと思われる。その一つを島津製作所に与えたのであろう。いずれにしろ、当時の海軍が技術創出の重要性を認識していたことは確かだろう。

 

なお、東郷の信濃丸に対する感状の実物が公開されたというニュースもあった。

 

http://sankei.jp.msn.com/region/news/111111/kng11111122480007-n1.htm

 

・沈没情報

 

既に述べたように、当初の連合艦隊の戦艦は6隻。ところがうち2隻の初瀬と八島が、第3次旅順口閉塞作戦の5/15に沈没してしまう。ただし、八島は死亡者が無く海軍自体が沈没を伏せた。ロシア軍から離れていたり沈没まで時間がかなったこともあって、ロシアに気づかれなかった。

 

逆に黄海海戦では、日本海軍は旅順艦隊を撃破できなかったと思っていたが、その時点で艦隊としての機能を失っていた。日本軍の203高地からの旅順艦隊への攻撃もさほど効果がなかったとも言われているが、結果的には旅順艦隊を壊滅したことになる。

 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%B5%B7%E6%B5%B7%E6%88%A6_%28%E6%97%A5%E9%9C%B2%E6%88%A6%E4%BA%89%29

 

http://ja.wikipedia.org/wiki/203%E9%AB%98%E5%9C%B0

 

プロジェクトもそうであるが、間違った情報が入ってきたり、少ない情報で決断すべき時がある。それらの発生を前提とした対応が必要である。(なお、事後なら情報も整理されるので、当事者の間違いを指摘しやすい。しかし当事者のプロセスの改善や再発防止の提起がないと、単なる傍観者というレッテルが貼られるので注意が必要だ。)

 

 

 

以下のサイトでは、ドラマの出演者やあらすじを読むことができる。歴史上の出来事とドラマ上の回数なども分かるので重宝すると思われる。

 

http://www9.nhk.or.jp/sakanoue/cast/

 

http://www9.nhk.or.jp/sakanoue/story/01/

 

以下の「坂の上の雲マニアックス」は坂の上の雲ファンサイトで、小説もドラマも取り上げている。

 

http://www.sakanouenokumo.jp/

 

 

日本海海戦を調べると、バルチック艦隊のアフリカ喜望峰経由の遠洋が、ある意味奇跡的とも思えてきた。逆にそれを敗因と考えるとすると、日露戦争以降に、なぜそこから学ばなかったか不思議な気もする。太平洋戦争でのハワイをはじめとする太平洋への進出である。机上演習などで、局所戦以外に遠洋を含めた大規模戦を行ったりしたのか、興味を覚えた。現代でも、事例研究を本や海外のそれに求める傾向が少なくない。日本の特質なのか? 組織内の事例や身近な事例の研究を行ったり、その知識共有に踏み込む必要があるのだろう。(昨今は、ITプロジェクトの失敗事例などの社内共有化を実践しているところも増えてきたが。)

 

また、日露戦争での賠償交渉では、ロシアは負担の少ない格好で条約を締結できたと言える。薩摩・長州はそれぞれ薩英戦争や下関戦争で外国に敗れてはいるものの、その責は幕府にあるとして賠償などは行っていない。それを考えると、日本は幕末以降でも、上手い格好での敗戦を経験したことが無いことになる。(なお薩英戦争や下関戦争の発端は天皇からの攘夷命令であり、その後の倒幕運動になることを考えると歴史の皮肉とも言える。)

 

東郷は連合艦隊の解散の辞で「古人曰く、勝って兜の緒を締めよ」と結んだが、勝利した原因やロシアの敗因を後世に活かせなかったとも言える。また、もし203高地を奪取できなかったり日本海海戦で敗れた時に、大本営を含めたどこが停戦を判断すべきだったかと考えるのも悪くないと考える

 

 

日露戦争をプロジェクト視点で考えることで、チーム編成やリスク管理など参考になることが多い。特に日本ではチーム編成を意識する人は少なくなく、その意味でドラマなどで深掘りできるのは良い教材とも言える。ドラマでは、意見の衝突などが生々しい。プロジェクトマネジメント上で組織の衝突(コンフリクト)は当然であるし、チーム形成では特に初期のそれは必然と言われている。そのような視点でドラマを眺め自分のプロジェクトと対比するのは悪くない。(ドラマなので、多少誇張の部分はあるだろうが。)

 

逆に日露戦争~太平洋戦争を俯瞰して成功の固定化と失敗と考えると、企業活動でも大なり小なり発生すると言える。昨今の日本のいくつかの産業の衰退や企業内での不採算の部門や不祥事の部門で、成功体験足枷が時々取り沙汰される。その視点での予防策の検討としても良い教材となるだろう。

 

 

 

蛇足:Facebookでの知り合いとのやり取りでは、日露戦争陸軍のことや、太平洋戦争(チーム山本と呼ぶべきか)のことも調べたらと言われた。しかし、大変そうなことと、個人的にはチーム東郷やその周辺の深掘りが似合ってるような気がする。ということで、悪しからず。

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