つれづれなる技術屋日記

しがない技術屋。専門は情報工学で、「つれづれ技術屋」って呼んで。

「戦艦大和誕生」

プロジェクトマネジメントの勉強のつもりで、特に日本での歴史物を読むことがあるけど、これもそんな観点で読んだ本。ネットの情報で、戦艦大和は同じ設計図での別の戦艦に対して、半分の工数や工期で建造したとのことをひょんな事で目にしたためだ。

 

http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/Watcher/20070817/279845/

 

元々戦艦”大和”には興味もあって、呉の大和ミュージアムなどにも行ったりした。一般の人、特にエンジニアだと、零戦と大和には大なり小なり興味があるのではないだろうか。ただし、零戦の方は設計技師堀越二郎の名前は有名で本もいくつか出ているが、大和の設計や製造となると一般的には広まっていないように思う。

 

(文庫)本2冊のちょっとしたボリュームということもあって、駆け足で読んだ格好になった。

 

著者は、元エンジニア。その視点での記述が多く、造船や溶接に関しては、詳しく書かれている部分が少なくない。他にもいくつかの著書があるようだ。

 

2冊それぞれに副題があり、上巻は”西島技術大佐の未公開記録”、下巻は”「生産大国日本」の源流”。実は、戦艦大和の建造までの話し自体は、下巻の1/5位まで。その後は、製造での中心人物である西島(技術大佐)が商船などの建造に関与するため、その話題が多くなる。駆け足読破だったこともあり、下巻のその後は、最初少し拍子抜けした。

 

しかし読み進めるうちに、西島のドラマが、現代での各自のプロジェクト経験とか企業内での複数プロジェクトと似ていたり参考になる部分が多いと感じてきた。その意味で、この本では戦艦大和の建造やその関連を通じて、多くのことを学べると言える。

 

 

なお、戦艦大和、およびその類型の建造に関しては、以下などが参考になると思われる。いわば”A-140”が、類型も含めた戦艦のコードネームで、派生的に4つ建造したことになる。戦艦大和は海軍での建造で、冒頭で対比的に述べられる武蔵は三菱長崎造船所による。また、空母に改装されたものもある。

 

http://military.sakura.ne.jp/navy/b_yamato.htm

 

またここでは西島の作業を建造との表現を用いるが、現代やソフトウェア設計だと、(詳細)設計~生産までを手がけたとのイメージが良いと思う。

 

 

そもそもこの本では、戦艦大和建造までに、西島などの失敗事例や試みなども書かれている。特に溶接技術に関してはページが割かれている。

 

戦艦大和建造の当初の予定は、以下だった。(上P350

 

 昭和12年(1937年)11月4日 起工

 昭和15年(1940年)8月上旬 進水

 昭和17年(1942年)6月15日 引き渡し

 

しかし実際の引き渡しは、1941年12月16日。半年も”前倒し”される。むしろ、”前倒し”を達成したと表現すべきかもしれない。

 

海軍といえども、予算があるから切り詰めろの指示が来る。性能として頑丈にしろという点と、航海性能を上げろという相矛盾する要求が突きつけられる。頑丈にすれば重くなり、速力は落ちる。また要求事項に関しては、頑なに変更を拒む、、、、。

 

軍縮の関係で、戦艦建造のノウハウはほとんど無い状態。ドック(の拡張工事)や工具から検討が必要だった。囚人までをも利用したという。さらには機密性のために、全体や他ブロックが分かりにくい図面での作業。砲塔部分の図面では寸法すらなかったそうだ。(上P379) ちなみに、拡張して工事したドッグは、各側2メートルの余裕しかなかった。対応として、実寸大の木の模型を作ることで、内装等の確認や実組み立てを効率よく行ったとのこと。実寸大といっても、全長は250m超。 また、特許に関する意識の件も触れてあった。

 

そのようなことを考えると、現代でのプロジェクトマネージャーの抱える課題と似通っている。その意味で参考になるし、親しみすら沸いてくる。

 

なお、人数を増やせないことが工員数一定となり、管理しやすくなった側面もあったと。(上P417) この辺りも現代に通じる。つまり、人月などでの見積もりして進捗管理するが、土壇場ではそう人を急激には増やせない。あるいは、増やしたことでかえって弊害を引き起こす場合がある。

 

戦艦大和は46センチ砲が有名であるが、砲塔を進水後に搭載している。(上P351) 船体がドックの底についてしまう可能性があったためと書かれているが、半分ほど合点がいかなかった。ドックの工事状況や工事結果により砲塔搭載をリスケジュールしたのではないだろうか。進水後に砲塔搭載するためには、雨が入らないようにするとか周りの装備の作業が通常と大きく異なってしまう。それらを含めて手順を考え直したのだろう。なお、46センチ砲が目に触れること(46センチ砲を想像できること)を避けたのも理由だったのかもしれない。

 

鋲打ちに対する二重底検査の逸話も面白い。(上P422) 鋲打ちの検査を徹底的行って、その後の残作業を減らしたというもの。 ソフトウェアでのテストファーストなどにも相通じる。

 

第二次世界大戦の状況により、計画に対して前倒しとなる。引き渡しを、2ヶ月半繰り上げて3月末とすることになる。(下P82)  実際最終的には、さらに前倒しになるが、この辺りも現代と似ている。そもそも完成予定を変更することは良くある。機能追加で実質延びることもあるだろう。まっ、古今東西似たようなものとの認識と、段階的詳細化やそれに伴う予測精度向上は念頭に置いておくべきだろう。

 

戦艦武蔵との工数などの対比は、下P94辺りに詳しい。武蔵の建造の見積金額にもそれが現れ、(いわば発注側としての)西島と、三菱との関係がギクシャクしたらしい。 ただふと思うに、当初から戦艦大和建造に三菱メンバーを参画させたり、製造に関するノウハウ等の伝授も行ったら違っただろうにとも思った。個人的には、派生機種開発とかサービス移行などとも相通じそうに感じたが、どうだろう。

 

 

戦艦大和進水式の後、1940年10月、西島は艦政本部に転任する。そこでは、(勘違いかもしれないが)ざっくばらんに言って民間向けの商船の建造にタッチする。本来(元々は)逓信省の役目を引き継ぐ格好。ただし逓信省側からすると、ぶんどられた格好。軍事物資の運搬能力アップが急務だったためだ。(本では、海軍 vs. 逓信省のわだかまりにも触れている。)

 

第二次世界大戦では、アメリカの攻撃で一般船の沈没などがあったが、当時はそれがアメリカにとって有効に働いた。逆に日本は武士道のような意固地さで、商船攻撃に踏み出せず。また、そもそも商船の生産能力に大きな隔たりがあった。(商船攻撃の逸話が下P319にある。)

 

その生産能力向上に、西島は駆り出されることになる。工場の建設や生産方式の改良、車のエンジンの利用、X線を利用した検査など、、、、、。ただ、歴史を知っている我々の視点では、回天などの特攻兵器、そして原爆の話題にまで及ぶにつれ、もの悲しさも感じてしまう。

 

そんな中で、個人的に気に入った逸話(下P285)を紹介しておく。西島が民間の浦賀船渠(うらがせんきょ)へ増産依頼をし、その際に浦賀側として問答したのは狩野忠男。勉強会などを通じて知っており、会議の際に西島の同級生を含めた他の重役連中を差し置いての問答を行った。そして、材料を西島が確保し、工場の開設にこぎつける。工場の船の建造では、大津高等女学校から100名ほどが来て、うち20名ほどが狩野のもとで現場作業を行った。他の所では事務作業をさせたので、(監督官から)文句が来た。移動させようとしたら、彼女らの方が泣きながら反対したため現場に戻ることになった。そして、終戦後42年ぶりに狩野と再会。

 

 

当初”戦艦大和プロジェクト”を知ってみようみたいな観点だったけど、派生開発とかプログラム管理そして人員確保なども含めて現代に通じることが多くて、非常に参考になった。”西島亮二”とか”西島カーブ”とかで検索すれば、トヨタ生産方式との関連や対比などに言及しているページもある。個人的には、リーン開発の観点で、西島生産方式について眺めてみるのも悪くないと思った。

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